創価学会の名誉会長である池田大作さんは東京都新宿区のご自宅で2023年11月15日に老衰のため、ご逝去されたことが明らかになりました。
とてもカリスマ性があるかたですが若い頃は色々と苦労があったようです。
生涯の師となる二代目会長である人物・戸田城聖(とだ・じょうせい)さんに出会い感銘を受け、創価学会に入信します。
その池田大作さんの若い頃の経歴や凛々しい姿の画像をご紹介したいと思います。
池田大作のプロフィール

池田大作さんのプロフィールをご紹介します。
名前:池田大作(いけだ・だいさく)
別名:山本伸一・法悟空
生年月日:1928年1月2日
死没:2023年11月15日(95歳没)
出身地:東京都大田区大森
学歴:富士短期大学
宗教:創価学会
配偶者:
妻・池田香峯子(いけだ・かねこ)
子供:長男・池田博正
二男・池田城久(故人)
三男・池田尊弘
肩書:創価学会名誉会長
創価学会インタナショナル会長
創価大学名誉博士・名誉会長
準学士(富士短期大学)
池田大作の経歴
池田大作さんの経歴です。
- 1928年:東京都大田区に生まれる
- 1947年:創価学会に入会
- 1960年:第3代会長に就任
- 1964年:日蓮正宗法華講総講頭に就任 公明党結党
- 1970年:政教分離を名言
- 1975年:創価学会インタナショナル会長に就任
- 1979年:総講頭を辞任 創価学会会長を辞任 名誉会長に就任
- 1984年:総講頭に就任
- 1990年:総講頭を資格喪失
- 1991年:日蓮正宗が創価学会を破門
- 1999年:公明党が自民、自由両党との連立政権に参加
- 2008年:中国の胡錦濤(こきんとう)国家主席と会談
- 2010年:創価学会の公式行事をすべて欠席し姿をみかけなくなる
約50年以上に渡り創価学会を支えられてきた池田大作さん。
2010年以降は公式行事を全て欠席と姿を表すことはありませんでした。
聖教新聞(総会の日刊機関紙)では不定期に現在の姿とされる写真が時々掲載されていたようです。
池田大作の若い頃を調査!
池田大作さんの若い頃はどのような活動などをしてきたのか簡単にご紹介します。
実家は海苔製造業
池田大作さんのご実家は東京都大田区の海苔製造業を営んでいました。
家族は7人家族。
父・母そして4人の兄がいました。
池田大作さんは末っ子ですね。
少年時代は第2次世界大戦の渦中で過ごしました。
多感な時期に空襲の恐怖、兄の戦死、母親の慟哭(どうこく)など戦争への怒りや憎しみを経験しました。
これが池田大作さんの平和行動の原点となるようです。
友人に誘われたのが入会のきっかけ
創価学会に入会したきっかけは19歳の時で小学校時代の友人に誘われたことが始まりです。
初めて座談会に出席し、そこで生涯の師となる戸田城聖(とだ・じょうせい)さんと出会い、戸田さんの人格に感銘を受け創価学会に入会します。
戸田城聖のもとで働くようになる

池田大作さんは20歳の頃に戸田城聖さんのもとで働くようになりました。
生涯、戸田城聖さんに師事し、逝去するまで事業をはじめ、あらゆる面で戸田さんを支え続けてきたそうです。
創価学会第3代会長に就任
1960年(昭和35年)5月3日に戸田城聖さんの後を継ぎ、創価学会第3代会長に就任します。
同年の10月には、世界に広がり始めていた学会員の激励のために、始めて北・南米を訪問され、世界への平和行動の第一歩をしるされたそうです。
文学少年だった

青春時代は肺病と闘いながら、文学書を読んだり、詩を創作したりと人生の意義について思策をめぐらせる日々を送っていました。
文学少年だったんですね。
そのためか池田大作さんは21歳の頃、雑誌の編集を仕事にしている時期もあったようです。
創価学会での活動と並行して小説、随筆、対談集、仏法哲学の解説書や子供向けの童話なども執筆をしていました。
その他、写真家や詩人としても活動をされていたようです。
本を執筆するほどですから、言葉の表現力が豊かでありリーダー的存在として、会長としてのポジションは適任といっていいのでしょう。
【画像25選】凛々しいイケメンな写真まとめ!
それでは池田大作さんの凛々しいイケメンな写真をご紹介します。

























どの写真も凛々しくてイケメンな画像でしたね。
まとめ
池田大作さんの若い頃を調査し、凛々しいイケメンな画像をご紹介致しました。
顔出ちがはっきりされていて、年を重ねるたびに貫禄が出ていました。
ご冥福をお祈りします。